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超わがままで頑固な母親の介護。悩んで葛藤していたこと。私の介護観。

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生き方

こんにちは😊

介護福祉士のコミティです。

私の母が亡くなってから、今年で5年が経ちました。

来年は七回忌です。享年80歳。

母親の介護をしている方はたくさんいてると思いますが、それぞれ葛藤されているでしょう。

どういうふうにしてあげたら一番いいのだろう?

これも嫌がる。あれも嫌がる。わがままばかりで。

こうした方がいいのに…その方が楽になるのに…そんなことも考える。

愛情をもっていればいるほど、悩みます。

結論から言うと、どんなに葛藤して悩んでいても、介護に正解なんかありません。

『転ばぬ先の杖』と言うことわざがあるけど、転んだことのない人が杖を持とうなんて思わない。

転ぶから持つんです。

転んでから学ぶのです。

物事は起きてからしかわからないようになっています。

亡くなった後に不思議とわかる悟りがあるのでございます。

おおいに最後まで悩み葛藤してください。

それが魂の修行です。(怪しい宗教ではありません(笑))

今回は私の母の介護のことを書きたいと思います。

腸閉塞で危機一髪

私の母親は、ちょっと堅物で変わり者で人付き合いは嫌いで、家族だけを頼りにするタイプでした。

母親は晩年、妹家族と同居していましたので、私は時々顔を見せにいく程度。

ある日、妹から、母親の嘔吐が続き、少し飲んだらすぐに吐くを繰り返してると連絡がありました。

妹は母親を近くの総合病院に連れて行ったのですが、ろくに検査をすることもなく、診断は胃腸炎だったとのこと。

水分をこまめに摂るようにと言われ、整腸剤と吐き気止めをもらっていました。

しかし、薬さえ飲むこともできないくらい、少しの水分でも吐いてしまいます。

当然脱水症状が出てきます。

妹から母親の様子がおかしいと連絡があり、駆け付けると、明らかに脱水症状で起き上がることもできない状態。

私が母親に声をかけると、起き上がろうとしますが、すぐに白目をむいて布団に倒れこみました。

これはあかん!と思い、すぐに救急車を呼びました。

そして救急隊員が到着。母親は意識朦朧。

受け入れ先の病院を探してくれますが、最初に受診して胃腸炎と診断した病院はなんと受け入れを拒否しました。

誤診のうえに、受け入れ拒否とはなんてひどい。

私は怒りに震え、2度と行かないと心に誓いました。

受け入れ先がなかなか見つからないと困っていましたが、ようやく1回目は受け入れ不可と言っていた別の病院が受け入れをしてくれたので、その病院に運ばれました。

そこでの診断は腸閉塞。

完全に詰まっており、即入院です。

もう少しで命が危ないところでした。

鼻からチューブを入れ、腸管内を減圧する処置がとられ、しばらく経過観察で入院。

この処置がつらそうで。

主治医はちょっと怖くて、チューブを挿入する時に、母が嫌がっていると、「はい!吸い込んで!飲み込んで!我慢しなさい!」と怒りながらされる。

母は涙目でかわいそうでした。

鼻のチューブから便汁が通り、便汁がウロバックのような袋に溜まるのです

あれ嫌ですよね💦

鼻の穴から便が出るの、チューブで丸見えなんですから。

主治医から、腸が動くように、できるだけ歩いて運動するようにと言われていたため、母はがんばって病院内の廊下を歩いていたのです。

でも夜に歩くと、看護師さんから認知症の徘徊だと思われ、病室に連れて帰られていた模様。

2週間くらい経っても、改善されないため、手術をする話しが出た時、母は手術を嫌がっていました。

しかし、腸閉塞が改善されないままではいけないので、とうとう手術をすることを承諾。

ところが手術日の朝、病院に行くと、母親の鼻からチューブがなくなっており、うれしそうに「腸が通ってん」と言われました。

すぐに主治医からも話しを聞き、手術当日の朝に排便があり、腸が通ったことが確認されたとのこと。

奇跡が起きた!と、私も母も大喜びで、まもなく退院することができました。

でもそれ以降は便秘しないように、漢方薬や下剤は飲み続けることになったのです。

認知症の兆候あり?

腸閉塞での入院中、私と妹が何度も病院に行っていました。

母はその時は78歳頃。

会話はしっかりとできていたし、夜間、院内を歩いていたら認知症に間違えられることはあっても、まだ認知症だとは思っていませんでした。

でも、ある日、10時頃に病院に行くと、母が「お母さん、朝ごはん食べてないねん」と言います。

私が「なんで?」と聞いたら「お母さんの朝ごはん忘れられたんやと思うわ。待ってたけど来なかった」と言います。

一応、職員さんに確認すると「出しました」とのこと。

母は、朝食を食べたことを忘れていました。

そしてまたある日、母親から入院費用を支払うためにお金を持ってきてと頼まれました。

母のタンスの引き出しに、まとまった現金を入れてるから、それを持ってきてほしいと。

私は妹と一緒に、母親に言われたタンスを開けて探していると、引き出しの奥にきれいに包まれたものが見つかりました。

「あ、これちがう?」「そうやわ、これやわ」

厚みもあったので「え?もしかして札束か?」とさえ思いました。

きれいに風呂敷で包まれたそれを開封すると、包まれていたのは現金ではなく、マカロニグラタンの箱でした💦

妹と顔を見合わせ「・・・」「なんでマカロニグラタンなん?」

ふたりで爆笑しました。

「お母さん、そんなにマカロニグラタン好きやった?」

「さぁ??」

「大事かも知らんから、これはこのままにしとこうか」

「うん、そうしよう」

私たちはマカロニグラタンの箱を元通りにし、風呂敷に包んで引き出しの奥に入れたのです。

現金は別の場所から見つかったので、母のところに持っていきました。

母にマカロニグラタンのことを話してはみたけど、記憶にない様子。

退院後もタンスの引き出しに汚染された下着が入れられていたり、物忘れの多さから、母も認知症になってきたのかなと思うようになりました。

私は介護職だったので、慣れていましたが、同居している妹は苦労したと思います。

大腸がんで腸閉塞

最初の腸閉塞から2年後、再び嘔吐が続き、便が出ないと言う状態がおき、救急診療で連れて行きました。

すぐに腸閉塞と診断され、そのまま入院。

そして、後日、妹から、今回の腸閉塞の原因は『大腸がん』と言われたと連絡をくれたのです。

大腸がんは肝臓にも転移しており、すでに末期で手の施しようがないとのこと。

私も主治医の話しを聞くために病院に行き、余命半年を告知されました。

2016年の12月、母は80歳でした。

がん告知の葛藤

母親にがんの告知をするかどうするか、妹と話し合いをし、私が話しをすることになりました。

昔から、母親はがんになったら言うてやと言っていましたが、最近の母親は物忘れがひどくなっていたので、ちゃんと伝わるかなと不安もあったんだけど。

私は入院している母親のところに行き、廊下の椅子に座り、話しをすることにしました。

私「あんな、お母さんの検査結果がわかって、先生の話し聞いてんけどな」

母「そうか。」

私「お母さんな、あんな…落ち着いて聞いてや。実は大腸ガンってわかってん…もうだいぶ進んでるねんて」

母「え・・・」絶句して手で口を覆う母。

私「・・・」

母「ガンか…」

私「ほんでな、お母さん、手術する?抗がん剤とかする?」

母「いや。手術なんか絶対したくない。せーへん。治療はせーへん。」

私「じゃあ、痛くないようにだけしてもらう?」

母「そうする。苦しくないようにだけしてほしい。」

私「わかった。」

母には延命処置は絶対にしやんといてやと念押しをされました。

しかし、この後は私が話したことを忘れてしまい、よく「お母さん何の病気やねんやろ」と言っていたのを思い出します。

退院後の自宅療養

腸閉塞の症状が治まり、退院しました。

介護保険の申請をし、認定調査の結果は要介護1。

緩和ケアに通院することになり、ほとんど私や妹が付き添って行っていましたが、総合病院は予約していても待ち時間が長い。

退院直後は比較的まだ元気な日もありましたが、しだいに通院自体がしんどいと訴えるように。

緩和ケアの主治医も、無理して通院しなくてもいいと言ってくれ、私は訪問診療と訪問看護をお願いしました。

主治医の方でいいところを手配してくれ、利用することになりました。

しかし、私の母は反対します。

「そんなん来てもらわんでもいい」

「なんにもしてもらうことない」

そんなことばかり言います。

介護ベッドをレンタルしようと話しをしても、「ベッドなんかおかない。布団でいいんや」と言う。

食事がとれなくなり、水分もとれないから、訪問看護で点滴をしてもらおうと提案しても拒否をする。

妹には幼い子供が4人もいるので、負担も大きいから、ヘルパーさんにもお願いしたらどうかと提案しても、当然母は拒否をする。

訪問診療の先生が、酸素の機械を置いていくと「こんなん邪魔やからいらん」と言う。

そのため見えないところに隠しました。

だんだん衰弱し起き上がることができなくなって、ようやく介護ベッドをおくことを了承しました。

しかし母は「ベッドは買った方がええんちゃうか?10年も使ったら元が取れるやろ」と言う。

私はつい「なんでやねん。いつまで生きる気やねん」と言ってしまいました😓

なんでやねん!

介護ベッドを置いてから、オムツになりました。

ヘルパーさんは拒否なので、妹と私がオムツ交換をしましたが、妹はつらそうなので、私ができるだけ行くようにしていました。

この時、母に「あんたが介護の仕事をしててよかった」と言われ、私も母のオムツ交換ができてうれしいと心から思ったのを覚えています。

先生に食事がとれないから、経腸栄養剤のエンシュアを出してほしいとお願いすると出してくれ、エンシュアを母はおいしいと少しは飲んでくれました。

ある日、訪問診療の先生が、一時的に元気になるステロイドの薬を飲んでみますかと提案され、出してもらいました。

その薬は効果絶大で、急に元気になり、妹と買い物に出かけたがるくらい。

元々好きだった菓子パンもぺろりと食べたり、「お母さん治ってきたわ」と言ったりして。

だけど、先生が言ってた「一時的」と言うのも事実で、元気なのは1週間も持ちませんでした。

また寝たきりになり、母はとうとう私に「お母さん、もうあかんみたいや。もう治らへんってわかった」と言いました。

それから母は定期預金を解約し普通預金にしたり、貯金などを整理しはじめ、私たち兄弟3人に渡すお金を準備し、自分の葬儀費用も含め、それぞれにお金を渡しました。

今でもその時の母の気持ちを思うと胸が詰まります。

緩和ケア病棟へのタイミングがわからない

総合病院の緩和ケアの主治医と、訪問診療の先生は連携をとっているので、いつでも緩和ケア病棟に入院できると言われていました。

でも、母は入院が嫌だとずっと言っていて。

入院したら迷惑かけるからとばかり言っていました。

ですが、妹としては、いつ容態が急変してしまうかわからないことを考えると、がん末期の母には入院してもらいたいと思います。

朝、起きた時に死んでるかもしれないと思うストレスは、かなりきつい。

訪問診療の先生に相談もしました。

緩和ケアにはいつ入ったらいいのかと。

ですが、先生は「いつでも入れますよ。お母さんが入りたいと言えばいつでも入れるから。」

ですが、母は絶対に入院したいなんて言わない。

最後まで家にいたいと強く願っている以上、無理やりに入院させるのはかわいそうでした。

母は昔から家族だけを頼りにしてきた人で、他人を受け入れないので、入院したら孤独になるのかも知れない。

もうすぐ死ぬとわかった状態で、孤独な中で死ぬのか、家族がいるところで死ぬのか、家族にしか甘えられない母には選択の余地はなかったのでしょう。

私と妹は話し合い、自宅で看取る覚悟を決めました。

最後に温泉旅行に行く

1月の間はまだ食事もできていて、比較的動けたので、妹と温泉旅行を計画し、天橋立に行きました。

その日は現地が大雪に見舞われましたが、それも思い出かな。

母は歩くのはしんどいからと、ほとんど車から降りることはありません。

そして温泉に入り、その後、母が好きなカニ料理を喜んで食べてくれていました。

その頃の私は、今まであまり親孝行できなかったことや、思い出を作りたいと言う思いでいっぱいだったように思います。

その時の旅行で、知恵の文殊さまの知恩寺で、ケアマネ合格祈願のお守りを買いました。

私「私、今年ケアマネ合格するわ」

母「がんばって。あんたは努力家やから大丈夫や。」

そう言ってくれました。

自宅で看取る

温泉旅行を境に、母の具合は一気に悪くなりました。

食欲がなく、何にも食べたくない。

食べても、ほんの少しだけ。

昔はパンが好きで、毎日パンとコーヒーさえあればいいってくらいだったのに、パンもコーヒーもほしくない。

ほとんど寝たきりになっている。

オムツ交換や、母の介護の手伝いのために毎日行きました。

3月になると、訪問看護も週2回から毎日入ってもらうようになり、私も休みの日には泊まり込みで介護しました。

3月の半ばになると、もうほとんど食べることもなく、便もだらだらと出続けています。

訪問診療の先生は「全然食べなくなったら1週間だと覚悟しておいてください」と言われました。

そしてある日、泊まった朝、仕事があるので帰る前に「今日は当直やから、明日の朝また来るわ」と言うと、母は「ありがとう」と、首を上げて私を見ながらハッキリ言いました。

それが、母の最期の言葉です。

その日の当直勤務を終え、翌朝帰る前に妹から連絡があり、訪問看護さんが来てくれていたけど、母とは今日お別れになるかも知れないって言われたとのこと。

訪問看護さんは10時に来て、清拭をしてくれていて、途中までは母と会話をしていたけど、急に意識がなくなったらしい。

また来ると言われ、一旦訪問看護さんが戻ったとのこと。

私が急いで帰ると、母は意識がなく、下顎呼吸をしていました。

その場には妹も妹の子供たちもいて、駆け付けた私も一緒に、母のベッドの周りで母を眺めていました。

やずっと下顎をパクパク動かす下顎呼吸をしています。

昼近くになり、妹が「お姉ちゃん、なんか食べたら?」と声を掛けてくれ、私はカップ麺を食べることにしました。

そして、カップ麺にお湯を注ぎ、食べるために母に背中を向けたその時、妹が「あ!」と声を出します。

私が「え!?」と、妹の視線に目をやると、母の下顎呼吸が止まっていました。

私は母に「お母さん!お母さん!」と体をゆすったりしましたが、反応はなく、母に「なんでやねん!ずっと見てたのに、なんで向こう向いたときやねん!」

そして妹にも「あんたがなんか食べろ言うからやんか」とも文句を言った気がします。

それから訪問診療の先生にも連絡し、まもなくして来てくれ、死亡が確認されました。

がんの告知から3か月の早さでした。

訪問看護と訪問診療には心から感謝をしています。

妹も私も当然泣きましたが、すがすがしい気持ちでした。

それは、本人の気持ちを尊重し、私たちもやれるだけのことはやりましたと言う自負で、後悔がなかったからだと思います。

私の介護観

介護と言うのは正解がないです。

第三者から見たら、こうするべきだとか、こうした方がいいのにとか、これが正解とかあるでしょう。

でも、介護される人、介護する人、それぞれに性格も事情も違うので、一概にこれが正しいと言えないのが現実です。

水分が摂れないから点滴をしなければいけないと言う考えも、正しくもあり間違いでもあります。

水分をうまく排出できない体に、点滴で水分を入れていたら、浮腫で本人はしんどくなります。

人間は最後は枯れるように死ぬのがいいと言う考えもあり、私の母は点滴をしませんでした。

親なんだから、子供が介護するべき、とも思いません。

お金を払って、他人に介護される方が気が楽と思う方もいます。

私は、高齢や病気で、もういつお迎えが来てもおかしくない人に厳しくする必要はないと思っています。

私は決して親孝行な娘ではなかったですし、若い頃はそりも合わず、ずいぶんとイライラさせたこともありますし、恨んでいた時期もあります。

だけど、母の最期の言葉が「ありがとう」だったことで、嫌なことは全部帳消しになり、色々あったけど、母の娘でよかったと心から思いました。

母が亡くなってから、母のもとに生まれた意味を知りました。

自分の価値観を押し付けて、入院させていたら、死に目には会えなかったし、さみしい思いをさせたのかもと後悔したような気がします。

私が目指しているのは、いい意味でその人の記憶に残る人でありたいと言うことです。

人生の終わりに「あなたに会えてよかった」と思われることを心掛けて仕事をしていきます。

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